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2007/12/13 日記<富士スピードウェイ>
富士スピードウェイ
富士スピードウェイ(ふじスピードウェイ: Fuji International Speedway)は静岡県駿東郡小山町にあるサーキットである。略称は「FSW」。かつては運営会社の「富士スピードウェイ株式会社」の英文社名“Fuji International Speedway Co.,Ltd”にちなみ FISCO と表記されていたこともある。2000年よりトヨタ自動車の傘下に入る。
歴史
オープンまでのいきさつ
富士スピードウェイ株式会社の前身「日本ナスカー株式会社」は1963年に設立。その名の通り日本国内におけるNASCAR形式のレース開催を目的として設立され、翌1964年1月にはNASCARとの間で日本及び極東地域におけるNASCAR形式レースの独占開催権に関する契約を締結。同年6月にはサーキット候補地として静岡県駿東郡小山町大御神の150万坪の土地を選定し地権者らとの契約にこぎつける。しかし、その後本格的にサーキットの設計が始まると、地形の関係からNASCARレースの開催に必要なオーバルコースの建設が困難なことが判明したため、翌1965年にはNASCARとの間の開催権契約を白紙還元することで合意。改めてロードコースとしてサーキットを建設することとなり、社名を現在の「富士スピードウェイ株式会社」に改める。その後同年10月には三菱地所が同社に出資、実質的な経営権を握ることになる。
オープン
高度成長期真っ只中の1966年1月3日にオープン。1960年代には当時スポーツカーで争われた日本グランプリ (4輪)|日本グランプリが開催されるなど、船橋サーキット・筑波サーキットと並んで首都圏周辺におけるモータースポーツの中心的な場所となる。
30度バンク
富士スピードウェイの大きな特徴として、30度のカントがついたバンクコーナーがあった。これは前述の通り、元々同サーキットがオーバルコースとして計画されたことの名残と言われている。オーバルコースではコーナーでの減速を極力減らすため、コーナーにバンクを付けるのが普通である。当時、国内でこのような急角度の路面舗装を経験した業者はひとつも無く、依頼された日本鋪道(現・NIPPOコーポレーション)は、ロードローラーをバンクの上からワイヤーで引っ張るという方法できり抜けた。しかし、もともと経験不足を起因とする勾配の設計が良くない上に、後に「馬の背」と呼ばれることになるこぶ状のうねりもある。オートレースの世界から転進した田中健二郎曰く、「完成当初にコース管理者に『基礎に杭を打ち込んだか?』と尋ねたら、『打ち込んでない』と言われ『こりゃ駄目だ』と思った」そうである。そのため、オープン当初から重大事故が多発し、1974年の富士グランドチャンピオンレース|富士グランドチャンピオンシリーズ(富士GC)第2戦中に起きた風戸裕・鈴木誠一 (レーサー)|鈴木誠一両選手が死亡する大事故を契機に使用が中止された。ただし、バンクが起因となった死亡事故は、1973年の富士グランドチャンピオンレース|富士GC最終戦の中野雅晴死亡事故までは、開業年に発生した永井賢一死亡事故だけである。この死亡事故も、二重に設置される筈のガードレールが一枚しかなかった設置ミスと、ステアリングミスが重なった不幸な事故だった。旧コース時代の末期にイベントの一環として、体験走行会が何度か行われている。現在は一部の路面がモニュメントとして遺されたメモリアルパークとなっている。
F1開催と中断
1976年と1977年にはフォーミュラ1|F1世界選手権の日本ラウンドが開催された。1976年は『F1世界選手権・イン・ジャパン』という名称で開催された。詳細は日本グランプリ_(4輪)参照。1977年のF1日本グランプリではロニー・ピーターソン(ティレル)とジル・ヴィルヌーヴ(スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ)が第1コーナーでクラッシュ。このクラッシュで宙を舞ったヴィルヌーヴのマシンが激突し、立ち入り禁止区域にいた観客2名が死亡する事故が起きた。この事故の衝撃や、当時暴走族の傍若無人なふるまいが大きな話題となっていたことなどがあり、「モータースポーツは危険」という認識が広がってしまった。以来富士でのF1グランプリは開催されなくなり、1987年より鈴鹿サーキット|鈴鹿で開催されるようになるまでF1グランプリの日本での開催は中断することとなった。
廃止の危機
1979年に御殿場市の青年会議所が富士スピードウェイの廃止を陳情したことがきっかけとなり、1980年代前半にはサーキットの廃止とゴルフ場などを中心にしたレジャーランドへの転用が、経営権を持ち大半の土地を所有する三菱地所によって検討された。この陳情の背景には、当時の富士スピードウェイの屋台骨を支えていた富士グランドチャンピオンレースの観戦を目的とした暴走族が、サーキット周辺で集会や暴走行為などを繰り返すことにより周辺環境が悪化するという問題があった。また当時の世間におけるモータースポーツの認知度の低さから、「モータースポーツ自体、暴走行為を助長するものであり好ましいものではない」との意見も一部には見られた。しかしながら一方で、当時建設業に携わっていた者が陳情の中心にあったという説もあり、争議の後半においては陳情側がトーンダウンした状況が見られた。これに対し1980年には、モータースポーツ界を代表する形で「日本モータースポーツ振興会」が設立され廃止反対運動を開始。1985年には「FISCO廃止問題連絡協議会」と改名し、サーキット廃止に反対する地権者達で構成される「富士スピードウェイ協力会」とタッグを組む形で反対運動を展開した。1986年には三菱地所がスピードウェイのある小山町長に対し調停を申し立てたが、同年7月30日に「この件は白紙に戻す」という町長裁定が下り、正式にサーキットの存続が決定した。
バブル景気到来
その後日本経済はバブル景気に突入、同時に中嶋悟のF1参戦とホンダのF1での活躍による、未曾有のモータースポーツブームが訪れた。富士スピードウェイも1989年に富士グランドチャンピオンレースが廃止されたものの、スポーツカー世界選手権|世界耐久選手権(WEC)日本ラウンドの開催や全日本フォーミュラ3000|F3000選手権、インターTEC等の開催で再び賑わいを見せることになる。その後1990年代中盤にはピット・パドックエリアが改修され近代的な設備が整った。
リニューアル・オープン
2000年にトヨタ自動車が三菱地所から同社を買収し、2003年の9月から営業を停止して改修工事を始め、そして2005年4月10日にリニューアルオープンをした。新コースはセパンサーキット(マレーシア)や上海インターナショナルサーキット(中華人民共和国)など、1990年代後半から2000年代にかけて新規にF1を開催しているサーキットのほとんどでそのデザインを担当しているヘルマン・ティルケの手によるものである。旧コースの特徴の一つだった約1.5kmの直線は残されつつ、コースが現代的に改良された。大きな変更点としては、旧コースでは最終コーナーから直線にスムーズにつながっていた部分が、新コースでは入り組むような形に直されており、難易度が増している。また、ランオフエリアはほとんどが舗装され、安全性が向上した上、コース脇には緊急車両用の通路が設けられた。これらの改修により同サーキットはF1開催に必要な資格のグレード1を取得した。メインスタンド、レストラン、駐車場、トイレなど観客が利用する施設の質的向上も旧来に比べ著しい。しかし、時間走行権や占有使用料などをはじめとする料金の設定が、割高だという声も多い。敷地内にトヨタの交通安全センター「モビリタ」も設立。本コースの他にドリフト走行|ドリフトコース、ジムカーナコース、ショートサーキット、カートコースを建設。レクサス販売のための研修施設であるレクサスカレッジを設立。
F1GP再開催
また1987年以降鈴鹿サーキットで行われていた日本グランプリ (4輪)#F1日本グランプリ|F1日本GPの契約が2006年シーズンまでだったことから、富士スピードウェイは2007年以降の日本GP誘致に乗り出し、FOA(フォーミュラ・ワン・アドミニストレーション)との交渉の末、2007年のF1日本GPの富士開催が決定した。2006年10月1日には、トヨタ自動車の岡本副社長が時事通信社の取材に対し、国際自動車連盟(FIA)との契約期間が5年間であることを明らかにした。しかし2007年9月30日には、富士スピードウェイの加藤裕明社長が「岡本副社長が勘違いしていた。契約の年限は決まっていない」と訂正、富士スピードウェイでのF1開催権に期限が設けられていないことを明らかにした。これに対し鈴鹿サーキット側も2008年以降のF1開催を目指していたが、2007年9月8日にFIAは、2008年は富士で開催、2009年以降は鈴鹿と富士が隔年で交互に開催を行うことを発表している
[2008年以降のF1日本グランプリの開催について]。
特徴
立地
富士スピードウェイは山上に位置しており、気圧が低く天候が不安定なサーキットとしても知られている。夕方になると気温が急激に下がる傾向があり、観戦にあたっては夏期を除いて防寒策が必須である。また、気圧の関係でターボチャージャー|ターボ車有利となるため、一時期のSUPER GTでは自然吸気車にハンデが与えられたこともあった。雨が降りやすいだけでなく集中豪雨的に降る上に霧が発生しやすい立地だが、現代のモータースポーツではレーサーの安全確保のためにメディカルヘリが必須とされており、そのヘリが雨天や霧の発生により飛行が危険と判断されることも多い。このような理由から、富士はサーキットとして決して適正が高いとは言い切れない。富士における9月の降雨率は60%以上とされ、鈴鹿サーキットでは開業以来台風以外に雨天中止のレースが無いのに対し、富士スピードウェイで開催されたレースは、雨天や霧によるレース中止もしくは危険にもかかわらず強行されたり、大幅にスタートが遅れたり等という例が見られ、実際に大きな事故につながった例もある。主な具体例としては以下のものが挙げられる。*1976年開催の日本グランプリ (4輪)|F1世界選手権・イン・ジャパン
1985年開催の世界耐久選手権(WEC-JAPAN)
1998年5月開催の全日本GT選手権・第2戦[同レースでは太田哲也が瀕死の重傷を負った。詳しくは太田哲也#悲劇の事故を参照。]
2006年4月開催のフォーミュラ・ニッポン第1戦[濃霧のため決勝レースが2周で打ち切りとなった。詳細は[http://www.sunoco.co.jp/motor/fn_report/2006/index.html]等を参照。]渋滞問題
日本国内の多くのサーキットは人里離れた場所に立地している。そのため入退場時の交通量対策が慢性的な問題となっており、観客の大部分が自動車で来場するため大きなレースイベントを開催する際は、必ず渋滞が引き起こされる。これは富士スピードウェイも例外ではなく、富士への来客も基本的に自動車で入場し敷地内の駐車場に駐車するようになっている。富士の場合、自動車以外でアクセスする場合は御殿場駅からのバスがよく使われるが、御殿場駅自体がサーキットから離れている上、運行本数が少ない。大きなレースの際は御殿場からの臨時バスが増発され、他駅からもシャトルバスが運転される場合が多い。とはいえ、元々近傍にある東名高速道路は非常に交通量が多い上、休日ともなると御殿場プレミアム・アウトレットに向かう買物客がこれに加わること、またサーキット周辺の一般道で幹線道路は国道246号と国道138号(御殿場バイパス)ぐらいで抜け道も少ないことから、富士でのSUPER GT開催時などは御殿場インターチェンジやぐみ沢交差点付近での渋滞が常態化している。長期的には第二東名高速道路の開通により交通事情が改善することが期待されているが、第二東名の開通は早くても2012年頃の予定であり、短期的には渋滞の劇的な解消は見込み薄という状況にある。2007年F1日本グランプリ
今まで開催されていた鈴鹿サーキットと比べて最新設備・バリアフリーの強化といったメリット以上に、雨天に対する対応・渋滞・観客に対するホスピタリティの質の低さ等、非常に多くの問題点が目立つグランプリとなってしまった。その大きな要因として、30年振りの開催とはいえ、当時とは規模も組織も違う状況下、実質